境内案内

東漸寺 境内のご案内

本堂・客殿
不動堂・多目的ホール
仏像・石仏など

本堂(外観)

本堂(外観)

現在の本堂は、興教大師850年御遠忌を記念し、平成9年に中興第二十世森岡隆冲大僧正により建立されたものです。
落慶法要は、同9年6月1日に大本山川崎大師平間寺のご貫首様を大導師に仰ぎ、稚児行列も行い盛儀のうちに執り行われました。
江戸時代は南向きでしたが、現在の本堂は東向き。正面7間奥行8間の銅板葺で、江戸初期作と伝えられているご本尊大日如来が安置されています。外陣は57畳あり、法事や法要などの際にはゆったりとお参りが出来ます。

本堂では、仏教法要や東漸寺ヨガ(ヨガ教室)を開催しています。

行事案内
東漸寺ヨガ

本堂

本堂

内陣正面には、江戸初期作と伝えられているご本尊大日如来を安置し、右の薬師壇には、薬師瑠璃光如来日光・月光菩薩十二神将が安置され、左には位牌壇があり各家の先祖位牌が祀られています。


本堂内陣

本堂内陣

須弥壇の前に設けられた修法のための仏壇を大壇と呼び、密教道場の中心となる壇です。本尊大日如来を始め曼荼羅の諸尊を供養する密教の秘儀をおこなう本堂の中で最も大切な場所です。


ご本尊 大日如来

ご本尊

本尊は金剛界大日如来、江戸初期の仏像。
新編武蔵風土記によると東漸寺は江戸時代に数度灰燼に帰しています。また戦争では川崎大空襲により丸焼けになってしまいましたが、歴代の住職がご本尊さまを持ち逃げたおかげで現存しています。
大日如来は両界曼荼羅(金剛界曼荼羅、胎蔵界曼荼羅)の主尊であり、真言密教においては教主です。宝冠を付け、宝飾を身にまとい、智拳印を結んでいます。
真言「オン バザラダトバン」


薬師壇(本堂 向かって右)

薬師壇

江戸時代には、山門から入って左側に薬師堂があり、本尊には聖徳太子が作ったと伝えられている薬師瑠璃光如来立像が安置されており、不動明王と合殿であったと古文書には記されています。しかし何時の頃か焼失してしまったため、平成9年の新本堂建立の際に、本堂内に薬師壇として再建しました。


薬師瑠璃光如来、日光・月光菩薩、十二神将

薬師瑠璃光如来、日光・月光菩薩、十二神将
薬師瑠璃光如来

東方浄瑠璃世界の教主であり、手には万能に効く薬壺を持っています。一般的にはお薬師さまの愛称で親しまれている仏さまです。
お薬師さまは二つの顔を持っています。先ず何より、薬壺の薬の力と瑠璃光によって衆生の病苦を救い、無明の病を治すための法薬をくださる医薬の仏さまです。
また、薬師如来を中尊として日光菩薩を左脇侍に、月光菩薩を右脇侍としています。
日光菩薩は太陽のような光を放ち衆生の苦しみの闇を消し去り、月光菩薩は月のようなやさしい慈しみの光で煩悩を消し去ります。
年回忌では七七日忌にお伺いする七人目の仏さまで心の病を治して頂きます。
もう一つの顔は国家を守る仏さまです。十二神将と呼ばれている十二名の将軍を従えています。
さらにこの将軍は各々七千騎の兵を従えていますので、合計で八万四千の兵がいることになります。
八万四千とは仏教では無数を意味しますので、それだけ大勢の兵がいることになり、国家を魔から守っています。
真言「オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ」


阿弥陀如来立像

阿弥陀如来立像

西方極楽浄土の教主であり、手には弥陀定印を結んでいます。
阿弥陀さまは無量寿如来とも言われ、光明と寿命の徳を授けて頂ける仏さまです。
名前の由来は十方の国土を照らす光明が無限で遮るものがなく、また、その寿命が無量であるというところからです。
また、衆生救済のため四十八願の誓願を立てられました。特に十八願は全ての者の苦しみを抜き、幸せにするという本願として有名です。
もう一つ真言宗では観自在王如来とも呼ばれています。
私たちのことを良く観察し、煩悩にまみれた私たちを自在に救ってくださる仏さまです。
年回忌では三回忌にお伺いする仏さまです。
永遠の寿命を授けて頂き、悩みを自在に見通し、それを解決して頂きます。
真言「オン アミリタテイセイカラ ウン」


位牌壇(本堂 向かって左)

薬師壇

本堂が建立されてから安置されている位牌壇です。檀信徒の先祖位牌を祀る壇であり、毎朝の勤行によって供養がなされています。


弘法大師像(こうぼうだいし)

弘法大師

真言宗の宗祖、弘法大師空海。幼名真魚(まお)。お大師さまの愛称で親しまれています。
宝亀5年(774年)お大師さまは四国香川県善通寺のあたりでお生まれになりました。
15歳になると教授に就き勉強を始めて、18歳で京の大学に入学しました。
しかしほとんど習得してしまったので、19歳の時、仏教を深く体験するため山林修行に出て、24歳の時、仏教、儒教、道教を比較した本を書きます。
31歳の時、東大寺戒壇院にて得度受戒をして空海と名乗ったとされています。
そして運にも恵まれ、密教を学ぶため遣唐使として唐の国に渡ります。
4艘あった船は2艘のみが唐に渡ることが出来ました。
そのうち1艘が天台宗を開かれた最澄さん。
もう1艘が空海です。不思議なことにお坊さんの乗っていた船だけがたどり着きました。
唐の国で密教の第一人者である恵果阿闍梨に師事しました。
恵果阿闍梨は空海が日本から来ることを察知しており、何十年と修行している大勢の弟子がいるにもかかわらず、来たばかりの空海にすべてを伝授します。
そして2年後「虚しく往きて、実ちて帰る」密教の素晴らしさを日本中に広めるため密教法具、経典、曼荼羅などの沢山の宝物を持ち帰国しました。
以来高野山を中心に真言密教を広めるため様々な活動をされました。
布教はもちろん、満濃池の修復など治水事業にも豊富な知識を活かされ、また庶民にも門戸を開いた画期的な学校「綜芸種智院」を開校されました。
日本中に密教の素晴らしさを広め、承和2年(835年)お大師さま62歳の時、高野山奥の院にご入定されました。今でも私たちを見守って頂いています。
ご宝号「南無大師遍照金剛」


興教大師像(こうぎょうだいし)

興教大師

真言宗中興の祖、興教大師覚鑁(かくばん)。幼名弥千歳。
嘉保2年(1095年)肥前国藤津庄(現在佐賀県鹿島市)でお生まれになりました。
13歳の時、京都仁和寺へ入り、寛助の下で学び16歳で得度、出家します。
20歳の時、東大寺戒壇院にて受戒をし、名を覚鑁と改めます。
その後、高野山に入り修行を重ね、座主という最高の地位に就きます。
平安時代後期、真言宗は浄土思想におされていましたが、真言教学の中に浄土思想を捉え「密厳浄土」思想を確立し、真言宗を復興します。
しかし覚鑁上人は高野山の旧勢力と対立し、紀州根来に弟子たちと共に居を移し、大伝法院を中心とする根来寺を建立します。
根来寺は豊臣秀吉による焼打ちに会うまで、室町時代後期の最盛期には坊舎450(一説には2700)、寺領72万石を数えるほどにまでになり、密教行者の修行道場として栄え、新義真言宗の礎となりました。
覚鑁上人は康治2年(1143年)49歳の時、弟子たちに囲まれながら円明寺にて入滅しました。
ご宝号「南無興教大師」


東住閣(客殿)

東住閣(客殿)

東漸寺の院号は東住院であるため、この客殿を東住閣といいます。東住閣は東西に建ち、4つの部屋で構成されています。


客殿内部

客殿内部

4つの部屋は東より月(がち)の間が12畳、日(にち)の間・風(ふう)の間・空(くう)の間が各々15畳となっています。襖によって分かれてはいますが57畳の大広間として使用されることもあります。これらの部屋は法事や各行事の休憩やお斎(とき)の場所に利用されています。


山門

山門

現在の山門はとても珍しくアーチ型の銅板葺で、門は中央に寺紋を配し、網目状の格子作りとなっています。

不動堂・多目的ホールのご案内

不動堂

不動堂

不動明王(潮田不動尊)、八大童子が祀られている道場です。毎年1月28日には住職の導師のもと初不動・新年祈祷会の大護摩供を御修行しています。護摩とは「homa 炉中の火に供物を投じこれを焼き諸尊に供養する事相、宗祖弘法大師以来の法を相伝し、所願成就を祈る」真言密教独特の秘儀です。また不動堂では「写経のつどい」も行われます。

写経のつどい

不動明王、八大童子

不動明王、八大童子
八大童子

大日如来が直接衆生を救うために姿を変えて現れたのが化身である不動明王とされています。お不動さんの愛称で親しまれている仏さまです。忿怒の相、怒った顔をしています。早く仏教の教えに気づきなさいと怒り、励む者には守護をする仏さまです。大盤石の上に立ち、右手に利剣(りけん)、左手に羂索(けんさく)を持っています。この右手の剣は仏教の正しい教えや智慧で邪悪な心を断ち切り、左手の綱で善い心や菩提心を起こさせ、縛りつけます。そして光背の火炎で煩悩を全て焼き尽くします。年回忌では初七日忌にお伺いする最初の仏さまです。不動明王には、八大童子と呼ばれる家来がいます。
15歳ほどの童子で8人の童(わらべ)を従えているということです。
八大童子の内、矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制吒迦童子(せいたかどうじ)を両脇に従えた三尊の形式で絵画や彫像に表されることが多いようです。
不動明王の右脇侍に制吒迦童子、左脇侍に矜羯羅童子を配置するのが普通です。
矜羯羅童子は童顔で、合掌して一心に不動明王を見上げる姿に表されるものが多く、制吒迦童子は対照的に、金剛杵と金剛棒を手にしていたずら小僧のように表現されたものが多いそうです。
東漸寺の八大童子は奈良国立博物館にある重要文化財の八大童子を参考に模写し、紺色の和紙に金で、青い空に浮いているかのように描かれています。
真言「ノウマク サマンダ バザラダン カン」

多目的ホール

多目的ホール

不動堂の脇に隣接しているホールです。配膳室や休憩できる和室もあり通夜・葬儀等にも利用される多目的なホールとなっています。

仏像・石仏のご案内

庚申塔

庚申塔

安永7年(1778年)10代将軍 徳川家治時代の作。
仏教では庚申の本尊は青面金剛とされています。また、申ということで「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿を従えています。

弘法大師像

弘法大師

江戸末期、とても信仰心の篤い「太田やす」という女性が小田村にいました。
彼女は当時ではとても珍しく女性一人で四国八十八カ所、西国、坂東、秩父の百観音と巡礼を果たしました。
どれ程大変な苦労をされたことでしょう。
その上四国八十八カ所の石像、つまり弘法大師像と本尊の写しの石像を小田村を中心とした八十八ヶ所の寺院に奉納するという心願を立て、巡礼を始めました。
しかし残念ながら29番目をもって途切れています。
東漸寺へは10番目の奉納、今も弘法大師像は鎮座しています。

六地蔵

六地蔵

お釈迦さまの入滅後、56億7千万年後に弥勒菩薩がこの世に出現するまでの間、六道を輪廻するすべての衆生を救うと請願を立てられた仏さまです。
六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天)に落ちないよう、この境を守り、苦しみから解放してくれます。境目を守るところから町の外れの境界に立ち、町を守ってくれています。
地蔵尊を信仰するものは「土地が豊かに稔り、家宅は永く安らかであり、先亡は天に生まれ、現存する者は寿命を益し、求める所は意を遂げ、水火の災い無く、虚耗が砕除され、悪夢を杜絶し、出入には神が護り、多く聖なる因に通う。」という十種の利益が恵、与えられると地蔵本願経に説かれています。
また、お地蔵さまには様々な民間信仰がありますが、特に子供を救ってくださる仏さまとしても有名です。
真言「オン カカカ ビサンマエイ ソワカ」

寺院墓地(境内墓地)・永代供養墓のご案内

寺院墓地(境内墓地)

寺院墓地(境内墓地)

伝統的な先祖墓です。小さいお墓から大きなお墓まで様々なサイズがあります。
浜風漂う下町情緒豊かな潮田に建立された東漸寺墓地は土地柄平坦なので、ご年配の方でも気軽にお参りが出来るのが特徴です。
墓地通路や外塀等は平成27年の墓域改修工事にて新しくなりました。
特に通路はとても歩きやすく、車椅子も通れるようバリアフリーになっており、お墓参りには最適な環境といえるでしょう。

寺院墓地の詳細はこちら

永代供養墓

永代供養墓

平成27年の墓域改修工事により境内墓地の中に永代供養墓として新しく建立され、納骨堂としても利用出来ます。 この永代供養墓(潮田観音霊廟)は真ん中に鎮座する聖観世音菩薩の後光から光が放たれ、やさしく包まれることをイメージして設計しました。霊廟内は石で造られた棚になっており仕切りがあるので、家族単位でもご利用になれます。

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